人事変移はありません。
応援メッセージです。
能登半島地震で被災された養護教諭の皆様へ
養護教諭の先生ご我も大変辛い思いをされていることでしょう。
そんな中、御前の子どもたちに心温まる言葉がけやまなざしで対応をされてみえることでしょう。養護教諭だからこそ発生る力で。本きちんと尊敬します。
東倭国大震災の時々、ガーベラの花ことばに「希望」があるので・・・
ガーベラを添えて応援メッセージを送ります。
三重県 養護教諭 布生 裕子
2011年3月11日、学校は様々な活動をしていました。
卒式の練習をしていた学校、普通に授業をしていた学校、一部の子どもたちだけが残っていた学校・・・いろいろでした。
ちなみに私ミルミルは、被災地の隣県にいましたが、ちょうど児童会摂生委員会の最中でした。什人ほどの初等学校生と一緒に摂生室にいて、突然の強烈な振盪に、大急ぎで子どもたちを摂生室中程の大幅机の下に避難させました。
私我は摂生室の木戸口の戸を開け、子どもたちから少し遅れて机の下に上滑り込みました。正懸けるような状態でいたのですが、振盪の利得にからだ全体が20浪華節的くらい左右に床の上を滑って動きました。隣にいる子どもが恐慌で飛び出さないよう勇敢に捕まえていて、他の子どもたちに「机の脚つかんで!」と叫んだことをおぼえています。それでも、振盪の強度は「震度5強」でした。
能登半島地震は「震度6や7」でしたよね。すごい振盪だったでしょう。
3,11の時は年度末でした。
しかし、津浪に襲われた学校は、摂生室や人員室が1階にあった所が多く、子どもの資料や文書が全て流されてしまった所がたくさんありました。
子どもたちの肝っ魂状態も心配されました。3,11の時は、親や祖父母を亡くした子どももたくさんいたのです。
そんな子どもたちをサポートするには、やヴィードロラポートができている先生方がいい・・・。
文書が流されてしまって、子どもの情報を失い、引き継ぎもできない状況だったこともあると思います。
結局この年、教人員の人事変移は行われませんでした。
子どもたちは慣れ親しんだ先生方と避難生活を乗り切ったのです。
学校の1年は、学期で休止期られその間に長期の休みが挟まっています。
場合によっては、それを柔軟に変更することは可能でしょう。
例えば、3,11後の4月はお休みにして、その分夏休みに授業を実施する、とか、1月は1ヶ月お休みにして、その分春休みは授業を実施する、とか様々な方法が考えられると思います。
どうするかを規定る基準は、重々に子どもたちの状況でしょう。
その次にはティーチャーの負担も考えられるべきだと思うのは、ミルミルだけでしょうか。