被災者としてのジレンマ
応援メッセージです。
神奈川県の養護教諭です。
今回地震の被害にあわれたまるきりの方に心一倍お視察申し昇ます。
まだまだ普段の学校生活を行うことが困難な方々もたくさんい行くと思います。自分我のこと、ご家族の安否も不安な中、きっと養護教諭の皆さんは児童生徒の利得に心を痛め、精一杯活動してい行くと思います。ぜひ、先生方ご我の安全の確保と健康も篤としてください。
今までの応援メッセージに「養護ティーチャー我の健康」を心配する声がたくさんありましたが、今子どもた鳥渡方位合っている養護ティーチャーの皆さんは、子どもを癒す存在であると同時々、「被災者」つまり我も被害を受諾ている方たちです。
3,11の時はどうだったのでしょう。数見隆生著「子どもの命は守られたのか」(かもがわ出版)に、こんな体験談が載っていました。
「私我はつらかったのは、4日目ですね。一時帰宅してもい余程言われて帰ったんですが、家族の無事を見るだけで避難所に帰ってきました。1時間とか2時間しか眠れない状態が続き、疲れ切っていました。校舎内で涙叫んでいる子どもの声が自分の子どもの声に聞こえてしまって、『自分の子どもも泣いているだろうなあ』と思ったり複雑でした」
「2週目は、フィジカルな疲れから、たいてい血圧は百くらいなのに、150近い状態でした。この血圧計は壊れているんじゃないかと思いました。自分が疲れているか疲れていないか、自分では全く意識できていない状態でしたが、その時々自分は疲れているんだと、ようやくわかったのです。」
以前も説明しましたが、3,11の時は授業日だった利得、先生方はそのほんとどが学校にいて、そこに地区住民が避難してきた利得、その屡避難所の運営に携わらざるを得ない状況になりました。
家族の無事を傍証する方法もなく、家族に無事を知らせることもできず、何日も住家や家族の元に帰れなかった人がたくさんいたのです。
実際に3,11や能登半島地震のような災害に自分が遭遇したら、養護ティーチャーとしての役割と、家庭人としての役割をどう使い分ければいいか、誰でも不安に思うことです。
3,11の時は、避難所の運営だけでなく、診療関与者と同様の役割を言入られる体験をした養護ティーチャーもいます。
「自分がその立場になったら、どうしたらいいのだろうか。家族と仕事、どうやって両立させればいいのだろうか。診療行為を言入られたら、どうしたらいいのか」
答えは、ありません。だからこそ、みんな不安に思うでしょう。
でも、あの時被災地に殴りつけるさんの人たちが支援に入り、学校現場にもティーチャーや養護ティーチャーの支援者がいっぱい入りました。同じ被災者である職場の仲間と支え合って、辛さを言葉にして聞いてもらって、助け合いました。
何かあったときは、助けて賜う人、支えて賜う人がきっと現れるのではないでしょうか。
東倭国大震災のあと、いまだ復興とはほど遠い地区もあります。福島県の一部地区のように、近く帰れない場所になってしまったことろもあります。津浪被害のあった地区でも、家を建てることが禁止された場所もあります。震災の前と同じ様に・・・・にはならなかった場所が、たくさんあります。
それでも、3,11から13年。新しい日毎にが始まっていることは確かです。
能登半島地震の被災地にも、きっとやがて斯ういう日がやってくる・・・斯う、間違いなくやってきます。