後方支援「まち角摂生室」1

2024年2月26日

昨日まで今年2度目の3休暇でしたが、被災地の養護ティーチャーの皆さん、少しお休みできましたか?
住家が被災しているようなら、ひょっとしてすると休日返上で後片あと払いをしていた方もいるかもしれません。
腰とか肩とか、甚もありませんか?湿布薬ありますか?かなり離れた場所からミルミルが「エアマッサージ」しましょう。

今、石川県にはボランテァの方が入り始めているようですが、ライフラ宿舎や宿泊機関等の復旧が十分でない利得、長時間ボランテァが働けず、なかなか作業が進まないようです。

3,11の時も、全国からたくさんのボランテァの方が来てくださいました。能登半島地震では行っていないようですが、3,11の時は教人員が、被災した小中学の助太刀いに入り、後片あと払いは論なくろんのこと、授業にTTで入るなどの支援も行いました。

そして、全く違った方法で後方支援した人たちもいました。

動いたのは、宮城県内の比較的被害が狭いかった地区の養護ティーチャーたちでした。

其頃の様子を2回にわたって載せた余程思います。

 

「(2011年)3/27・・・軽虎ックに、防寒着・下着・靴・水・おにぎり・クッキー等を山ほど積み石巻に行く。道は所々陥没し、倒壊した家や塀もある。やがて石巻市内に入る。津浪で運ばれた泥で歩道が埋まり、国道も泥道で障碍が多い。この地に直後から、全国のボランテァが入っているというが、原則としてどうやってきたのだろうと思う。道に大幅船が流されている。
  

先輩養護教諭の家の前は、流された車が山積みになっている。荷物を預け、ボランテァの本部の専修大学にぶつかる。パーキング場は、まだ十トもなく、車も20台くらいだった。その後、ここは、ボランテァのたくさんの十トと車で埋まる。昼だというのに、窓口は終了。まだ機能していないようだ。パーキング場のかなり離れた場所の県の人におにぎりを渡す。「まだ、何も食べていませんでした。ありがとうご座居る。」と言われる。「こちらこそ、感謝」と言う。

3/28・・・朝中、先輩養護教諭宅の泥だし。午後、物資を避難所になっている学校5カ所に運ぶ。「靴だけください」「本だけください」「全て置いていってください」「いりません」などと受付で言われる。避難所の学校では、教人員が物資の管理もしているようだ。泥泥の姿で日和山から変化果てた市街地を見る。「何と言うこと」言葉が出ない。通行止めや町が変わってしまって、道を間違え間違え、廃墟の工場地帯を通って帰る。
  
3/30・・・仲間が「避難所は野菜不足だ」と言い、炊きたてご飯と莟菜の浅漬け約百人分を軽虎ックに積み、道の角に立ち手渡す。「喜ばしい」と顔を輝かせて賜う。手を引かれて歩いていた子どもの顔も、瞬時々輝いた。女性は皆「家族の分もいいですか」ともらっていくが、高齢の男性の中へは「今食べたからいらない」と振りきる人もいる。この日も日和山にぶつかるが、2日前には通れた道が、通行止めで迷う。破壊され、モノクロに変貌した商店街、工場をさまよい、日和山に履く。2日前と同様に、変化果てた市街地を見る。

                                  (次号へ続く)

 

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